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2011年12月17日土曜日

地底からの救出劇

ある日の真夜中、ホットラインがなる

「クルマ1台が崖下40mに転落、要救助者は3名、救出にはしばらくかかる見通し」

救急外来は受け入れ準備に入る

しばらくして第2報

「1名は重傷の様子、他の2名は会話可能、まだ救出には時間がかかるのでドクター要請お願いする」

多数負傷者なので病院待機がベストと思われたが、しばらくかかりそうなのでナース1名とで現場へと向かう


クレーンで救出中


消防が工作車で救助活動中 まだ要救助者はあがってこない

現場は道路わきのがけ

草が生い茂り、クルマは直接見ることはできない

転落したクルマのクラクションがけたたましく鳴り響いている

現場のハザードは急峻な崖、暗闇、騒音(クラクション)だ


つづく

2011年11月7日月曜日

東北DMAT参集訓練

平成23年10月22日秋田県で東北DMAT参集訓練があった
午前11時までには現地入りせよとのことであった
逆算し、我が隊は午前4時に病院を出発

参集拠点の秋田組合総合病院を目指した
約7時間の長旅であった

秋田組合総合病院
途中7号線は津波のため通行不可との指示がでたが、
このとおりに行動すると時間内に到着できないため無視した

午前11前に秋田組合総合病院に入り病院支援をすることになった

病院のエントランスには傷病者がたくさんいて、既に病院職員がトリアージしていた

人数が多く混乱しているためここを手伝えというのが最初のミッションであった



トリアージを開始する十日町DMAT

同病院は災害訓練は2回目ということで職員の方々が一生懸命頑張っていた

こちらが片付くと赤エリアの手伝いに向かった


秋田の他の場所では海上保安庁の巡視船が出たり、航空自衛隊のヘリが出たりとすごい訓練であったようだ


海上保安庁巡視船しんざん


翌日は前日の反省や海上保安庁や秋田県知事、航空自衛隊のお話しがあった



航空自衛隊1等空佐佐藤徳弘氏の講演

佐藤氏は飛行機が音速を超える時の衝撃波のすさまじさを語っていた
ところが操縦士は全く何も感じないのだとか

稲庭うどんを昼食に食べ、帰路に着いた

日本海側は高速道路がつながっていないため、移動は大変であった
   
   

2011年10月30日日曜日

はやぶさの奇跡

9月16日十日町市民会館でJAXAの細田聡史先生の”はやぶさのくれたもの”の講演を聴いた

細田先生は小惑星探査機はやぶさのイオンエンジンの運用を担当した若きエンジニアである


私自身、前回の宇宙飛行士の募集の際には書類が間に合わず応募できなかった過去がある

今回は万難を排して出席した





話を聴いていると奇跡というよりは忍耐、辛抱の連続であったことに驚かされた

例えば

はやぶさに信号を送れる技術者は2人しかおらずこの2人が同時に倒れたらはやぶさは宇宙のゴミになってしまう

このプロジェクトの7年間2人は遠くへも行かず、風邪も引かないように注意し続けたという

当院の整形外科医も最少2人で膨大な仕事量を365日24時間続けていたがこれに匹敵する仕事であると思った



またリーダーについても触れられていた

このはやぶさのプロジェクトマネージャー川口淳一郎氏

1 ぶれないリーダー
2 あきらめないリーダー

この1,2をみごとにクリアーし理想のリーダーであったという



プロジェクトマネジャー川口淳一郎氏



このリーダーなくして はやぶさの奇跡はなかったという


医師は規模の差はあれ、チームのリーダーになることが多い

適性がある、なしは別問題で、こういう姿勢でいないとチームは動かせない

分野は違っても共通するものは多いと感じた


   

転落事故

8月のその転落事故の連絡はいつもと違っていた

ホットラインやERからの連絡ではない


勤務中、妻からの電話

妹が事故を起こした、救助中で直に運ばれてくるとのこと





ぶつかった電柱があとから倒れてきた
 
運転していたのは実父で、夏休みで帰省していた妹と、姪二人、母の合計5人が川に落ちた

現場は見通しのよい直線道路で居眠りが原因のようだ

大したケガもなく、入院もしなかった

現場写真をみると大ケガでもおかしくないのに

不幸中の幸いであった


    

2011年9月19日月曜日

石巻赤十字病院

9月14日長岡赤十字病院で災害医療従事者研修会が開催された

今回は石巻赤十字病院の石井正先生の特別講演があった

石井先生は石巻の最後の砦となった石巻赤十字病院でスーパーマンのごとく活躍され、NHKスペシャルや他の番組でも報道された


石巻赤十字病院 石井正先生


講演の内容はざっと以下のとおり(多少違うかも)

◎周到な準備の後に起きた大震災
時計の針を3月11日のあの時間から戻してみると
06’.5海岸部から内陸部の現在地へ病院が新築移転 
(免震構造、広いロビー、酸素配管のある壁)
08’~09’DMATに参加
10’.1.22石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協議会の立ち上げ
11’.2.12宮城県災害医療コーディネーターを県知事より委嘱

◎大ローラー作戦
300以上の避難所の様子をアセスメントシートで管理
この膨大な情報を毎日更新
衛生環境が劣悪だとわかり市に改善を要望、自らも行動
NTTドコモやいろいろな仕事の飲み友達がいて協力してくれた
(中継局ができたり、簡易水道ができたり)

◎石巻圏合同救護チーム
いろんな組織から派遣された医療チームが個別に活動するのは非効率
災害医療コーディネーターが一元的に統括する石巻圏合同救護チームが誕生

◎エリア・ライン制の導入
石巻圏をすべて管理するのは困難 14の地域に分けて管理
これにより新潟県も2ライン(2つの医療チームが常に常駐する)の医療支援が可能となった


詳しくは日経メディカルonline http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/report/t138/201105/519580.html


石井先生の講演ではリーダーとはどうあるべきなのかということを教えて頂いた

院内3大キレキャラのひとりということであったが、これをを封印
他人へはありがとうの感謝の気持ちを持つ
いろいろな問題にはすぐ介入、即決、即行動
コミニュケーションをよくとる (電話代がとてつもない額に)
日赤の災害服で活動していたが、いろいろなチームの代表としてはよくないということであえて私服に着替えた

などの逸話を聴くことができた

1時間の講演はテンポよく面白い話が多かったが、その影で随分な御苦労があったのだろうと推測された


  

2011年9月15日木曜日

9.1政府総合防災訓練

平成23年9月1日 政府総合防災訓練が行われた

首都直下型大地震発生

埼玉県航空自衛隊入間基地に重傷患者が集められ、広域医療搬送が行われることになった

十日町病院DMATは新潟空港にて自衛隊の大型ヘリCH-47愛称チヌークに乗り込み入間基地に向かう予定であったが、群馬県内の豪雨により飛行は中止



飛行予定であったCH-47



既に高速道路を新潟空港に向けて走行中であった我が隊は、CH-47飛行中止の連絡を受け三条燕ICでUターンし、埼玉方面へ向かった

途中群馬県では猛烈な豪雨があり、我が隊の通過直後に高速道路は閉鎖になった

入間基地に近づくと四国DMATが乗り込んだ高松空港からの自衛隊C-1輸送機が高度を下げ着陸態勢にはいっているのが見えた


四国DMATが乗り込んだC-1輸送機



広大な入間基地内には電車が走る

ランニングをする隊員、自転車で移動する隊員、多数の参集するDMATのために交通整理をする隊員

SCU(Staging Care Unit)の格納庫内は既に運ばれてきた傷病者やDMATであふれ返っていた


SCU本部



我が隊はSCUからCH-47までの傷病者搬送

午後になり四国DMATは再びC-1輸送機で高松空港に戻っていった

するとあふれ返っていたSCU内は少しガランとしてきた


SCU内より滑走路をのぞむ


その後CH-47の機内で傷病者の搬入と搬出などの訓練の機会があった

自衛隊の方にはとてもよくして頂いた

東日本大震災では初の広域医療搬送がおこなわれた
被災地内の病院では通常の医療レベルを維持できないため自衛隊機を利用し遠方の病院へ重傷者を搬送する作戦である

次にこの作戦がおこなわれるのはいつか


高速道路の通行止めは解除されておらず大渋滞のなか帰宅した
地震と水害・・盛りだくさんの一日であった


   

2011年7月31日日曜日

新潟・福島集中豪雨

平成23年7月28日早朝から一帯は猛烈な雨が降り出した

一時落ち着いたが7月29日午後7時30分頃から鍋をひっくり返したような雨になった

午後8時過ぎから雷鳴が轟き、市の中心部が数回停電になった

当院は自家発電に切り替わったが、火災報知器が誤作動し、電話が不通になってしまった

外では緊急自動車のサイレンが雨音のむこうに響いている

小川や流雪溝から水があふれ出している

病院の駐車場もひどくはないが冠水した


まもなく鉄砲水に流された重傷者1名、川に流された2名、自動車の誘導中にはねられた1名

がほぼ同時にきてERは大混乱に陥った

病院の電話が不通で、救急車も突然やってくるしかない

全身泥だらけの負傷者が水の勢いを伝えてくれる


鉄砲水は自宅裏山の小さな沢で突如起きた 

全く予想できない 自然の脅威だ


目の前で肉親を流された悲しみと恐怖は想像もつかない


十日町でこれほどの水害が起こることは全く予想していなかった


道路も冠水していて輸血用の血液が無事に届くか心配であったが間に合った

夜が明け濁流の川に転落した方の遺体が見つかった

薬がなくなった、取りに行けないという方が数名来院した

7月30日夕方に市に避難所に救護班を出した方がよいかと問うと今のところはよいとのことであった


水の引いた駐車場7月30日夕方




孤立した集落もあり、簡単には行けないとのことであった

少し小降りになってきたがまだまだ油断できない

   

2011年7月26日火曜日

シマヘビとマムシ

当院ではヘビ咬傷のほとんどはマムシによるものである

マムシに咬まれたと自らヘビの種類をいってくるひとが多い

来院時既にかなり腫れている

ところが平成23年度はそのマムシ咬傷がめずらしく来ない

いつもなら田んぼの仕事が始まるとマムシの季節がやってくるのに・・・


その代わりにおそらく別のヘビ咬傷と思われる症例が多い

ヘビの牙痕はあるが腫れが全くない

ある時そのヘビを生け捕りにしてきたひとがいた

シマヘビだ

透明のプラスチックのいれものの中で、私たちにとびついてくる

かなり凶暴だ

牙はするどく、咬まれるとかなり痛い

ただ毒はないので心配ない

抗生剤と破傷風トキソイドの注射をして帰宅


上がシマヘビ、下がマムシ


7月下旬になりようやくマムシ第一号来院

既に腫れている


矢印が牙痕


こちらは入院して治療が必要だ

マムシ抗毒素血清が効いて翌日の腫れはひどくならなかった


    

2011年7月22日金曜日

おいしい石鹸?

認知症の高齢男性が自宅の固形石鹸を食べたとのことで救急外来へやってきた

心配した家族が連れてきたのだ

本人は全く症状がなかった


左が未使用、右が老人が食べた石鹸

その石鹸はブルーベリーのようなさわやかな匂いがして、確かにおいしそうであった

老人の気持ちも分からなくはない

家族は未使用のものと食べ終わった石鹸の両方を持参してくれた

どれだけ食べたか良くわかった

本来なら入院が望ましいのだが、認知症がひどいため無理だった

牛乳を飲ませ、しばらく外来で様子観察のあと帰宅してもらった



日本石鹸洗剤工業会のHPでは口やのどの痛み、下痢、腹痛、嘔吐などが見られるとある

幸いにもそのような症状は出なかったようだ

それにしてもおいしそうだなと家族が残していった石鹸をみて思った


   

2011年7月12日火曜日

一般市民による除細動

先日、十日町市内で一般市民によるAEDを使用した心肺蘇生(CPR)がおこなわれた
その結果、この方は無事社会復帰できた


十日町市内では一般市民によるAEDの使用がこれを含めて2件ある

1件はショックをしたが救命にいたらなかった

今回が初のショック成功、しかも社会復帰であるのですばらしい


ある日の午後、十日町自動車学校内で講習を受けている方が突然倒れた 

教官がすぐさま、質の高いCPR+AEDをおこなった




Torsade de Pointesに対してショック



救急隊が接触時には既に自己心拍再開していた

受講生に心肺蘇生を教えることも多いのだろうが普段の訓練が活かされたとおもう


前回は救命にいたらなかったため、蘇生処置をおこなった市民が精神的ダメージを受けてしまった

それでも地域メディカルコントロールはこの救助者を表彰し、いくらかでも精神的負担を減らそうとした

”AEDは魔法の箱ではないので、それはあなたのせいではない”


新潟日報より



今回、地域メディカルコントロールは十日町自動車学校を表彰し、その様子は新潟日報にも出ていた


   

2011年7月3日日曜日

受傷機転

ITLSでは受傷機転の把握を重要視している

推理小説のような実際の事故の症例を提示する


高齢女性が家の中で倒れているのを帰宅した家族が発見

救急搬送された


ちょうど同時に重症者(トリアージでは赤)が搬送されてきていた

このためトリアージでは黄色のこの症例は後回しにされた

この判断はとてもよい

救急隊は消化管出血の疑いと判断していた

来院時の写真


私も消化管出血かもしれないと第一印象では感じた

便失禁があり生臭い臭いがして下血もありそうだ

鼻と口の周りには血液が付着していた


この女性はJCS1ケタで会話が可能であった

どうしたのか?とたずねると自分でもよく覚えていないとの返事

全身観察で後頭部と右鎖骨付近(緑矢印)に大きな血腫を認めた

外傷だ!

右鎖骨の腫脹部位には心電図モニターの電極が貼ってあった

少なくともその時はここまでは腫れていなかったであろう

鼻と口からの出血は打撲による出血だ

よく見るとシーツに嘔吐のあとがあり(赤矢印)、血性ではない

家人に、階段など落ちるようなところがあるか聞いてみた

高いところの棚を利用する際、不安定な台を使っていたとのこと

その台は近くに置いてあった

謎が解けていった

もう一つの謎は鎖骨側と後頭部を同時に打撲することはない

近くにテーブルなどはないか聞くと、四角いテーブルがあるとのことであった


推測図


テーブルと床の両方に強くぶつかったことが推測された

一見 内因性疾患を疑う外傷の症例であった


   

2011年6月26日日曜日

ITLSインストラクターコース

ITLS(International Trauma Life Support)は病院前外傷初療の標準コースだ

JPTECが基礎コースで、その上級コースという位置付けである

救急隊からドクターカー、ドクターヘリなどのクルーにも打って付けのコースである





ITLSのロゴ
 

そのインストラクターコースが平成23年6月26日新潟大学で開催された


新潟大学救命センター入口

当初3月13日の予定であったが、震災のためここまで延期になっていた



今回受講生として参加してきた


コースのなかでは受傷機転の把握が重要視されている

外傷患者がどんなふうに外力を受けたのか病院で待ち構えているスタッフは知りたいと思っている

そんな時、救急隊がデジカメで現場の写真をみせてくれて

「こんな斜面でここから転落してクルマはこんなふうに大破しています。」

と説明してくれると非常に助かる


百聞は一見にしかずとはよくいったものだ


しかし常にそういう写真が撮れるわけではない 

傷病者にレンズを向けるのは罪悪感を感じたりもする

写真を撮る時間すらない切迫したことも多い


受傷機転を考えながら活動するということはとても大切である

いずれ受傷機転の把握が困難であった症例を紹介しようと思う

尚、当院ERで意識障害の患者が搬送されてきた際、簡易血糖測定をすぐするのはITLSから取り入れたものである


  



  

2011年6月19日日曜日

東北DMAT技能維持研修

平成23年6月18日~19日、仙台で東北DMAT技能維持研修が開催された

研修に先立ち、東日本大震災の犠牲者に1分間の黙祷が捧げられた

講習では講義とシミュレーション、机上トリアージ訓練などがおこなわれた


仙台急患センター


そして2日目、今回の目玉である討論「東日本大震災」

DMAT活動の内容と反省がそれぞれのキーパーソンから発表された

発表者により内容に差があったように思う

今回の震災は非常に広域で、活動した場所、時期により大きく状況が異なっていたためだろう


以下のようなことがとりあげられていた

初めて自衛隊機(C1輸送機)を使用した広域医療搬送がおこなわれた

病院支援のありかたも検討すべき

通信手段がなく非常に混乱した



福島県立医大の長谷川有史先生の原発事故に対する発表もあった

「私は新潟県人ですが、この福島が大好きです!」

悲しいまでにひたむきな姿勢に胸をうたれた




最後に福島県立医大田勢長一郎先生が、

「もしDMATがいなければ、こんなにスムーズにはいかなかった DMATの訓練が活かされたと思う」

とまとめられた

この言葉で自分の中にあったモヤモヤも少し減った気がした


研修終了後、仙台市宮城野区蒲生までいってきた

津波の傷跡はまだ痛々しい



更地になった土地と大きく破損したアパート


道路脇に流されたクルマが溜まっている



瓦礫こそずいぶん片付けられたとはいうが・・

土台だけになってしまった住宅地

道路の脇にはつぶれたクルマがゴロゴロ

うず高く積み上げれた瓦礫の山




まだまだ震災は終わっていない



   

2011年6月11日土曜日

つつがなしや

5月の連休があけるとこの地域ではそろそろこの季節がやってくる

ツツガムシ病の季節だ


年に10件ほどだが診断が難しいこともある

主訴は発熱で、肺炎や尿路感染などはない

皮膚に発赤が見られることも多い 赤ら顔のように見えることが多い


以前こんなことがあった

発熱の原因はよくわからいが、とりあえず入院

抗生剤治療をする(セフェム系やペニシリン系がほとんど)がよくならない

どんどん悪化してくる

・・・・

こんな時に救世主があらわれた

「先生、刺し口みたいのがありましたよ」

看護師がツツガムシ病に特徴的な刺し口を見つけてくれたのだ


ツツガムシ病の刺し口 


これでもう診断がついたも同然

普段使わないテトラサイクリン系の抗生剤を使えばすぐに良くなってくる

ちなみにニューキノロン系は全く効かない



刺し口は直径が数mm~1cmでカサブタのようになっている

からだのどこかに1ケ所あるのだが、尻の割れ目の中にあったこともある

刺し口は痛くも痒くもない 

自分で気付くひとは少ない



過去には信濃川河川敷に注意と言われたが、

今では危険エリアは非常に拡大している

リッケチアがツツガムシというダニによって媒介され感染が成立する


ツツガムシ


有毒ツツガムシの比率は0.1~3%とされている

ツツガムシはとても小さく肉眼でみるのは困難である

リッケチアはさらに小さくミクロンの単位だ



病気を診断するのはもはや医師だけではない

これからの医療はチーム医療であると強く感じた



   

2011年6月2日木曜日

メディカルコントロール

メディカルコントロール(MC)・・・・知らないひとは多い

分かりやすく言えば
MC担当医師は救命士にオンライン指示、教育、事後検証などを行っているが
こうした救命士の活動をバックアップしている体制をMCという


以前の当院での事後検証を紹介する

実際の現場はわたしたちが頭で想像している以上に複雑で、数奇である


日没も迫った夕方、高齢の男性が水田の中で倒れているのが発見された

呼吸はあるが意識はないらしい

通報を受けて救急隊出発!


救急隊が到着時には既にまっ暗闇

救急車から降りて数百メートルのところに要救助者がいた

農道はあぜ道になり、更にぬかるんだ細いあぜになった



翌日の現場



探しに来ていた家族が男性を抱えていたが、皆どろまみれ

そして男性は既に心肺停止



救急隊も泥だらけになりながら、とりあえずあぜ道に男性を横たえた

しかし胸骨圧迫できる固い地面などなく

AEDのパッドを貼ろうにもすべてが泥だらけ

処置は全くできず、救急車をめざして急いで担架で搬送した


この間約7分


ようやく男性を車内収容し、乾いた布で前胸部を拭き、パッドを貼った

心電図波形は何と心室細動

ショック!

心肺蘇生は延々と続けられたが心拍は再開しなかった



さてあなたが救命士ならどうしたであろうか

泥のなか無理にでもパッドを現場で貼ったのであろうか


恐らく良い答えなどないであろう

こうした現場での活動は困難を極めるということを忘れてはならない







2011年5月15日日曜日

新潟MCLS試行コース

新潟MCLS試行コースが新潟市民病院で開催された

MCLS(Mass Causality Life Support)は「多数傷病者への対応標準化トレーニングコース」である


さわやかに晴れた新潟市民病院



災害現場で医療チーム、消防などが共同して活動するために必要な共通認識を持つためのコースだ

まだ12回しか開催されておらず、本コースへ向けての試行コースである



講師は全国からの有名医師らでとても贅沢である

受講生は新潟県を代表する医師、看護師、救命士など

自分は一見学者だが、他の見学者は錚々たる顔ぶれである


トリアージや災害現場のマネージメントなど

机上訓練や実技訓練などが盛りだくさんで見学だけでも有意義な一日であった



盛り上がるコース

阪神大震災では500人もの防ぎえた外傷死があったという 
                                   ※医療ミスではない

災害時における防ぎえた外傷死がひとりでも減るように、コースの普及を願う



     

2011年5月7日土曜日

ホワイトアウト

冬季山岳救助訓練は当初1月下旬の予定であった

昨年のスノーボーダーの遭難事故を教訓に計画された

しかし記録的豪雪のため延期になり

あらためて3月2日に清津スキー場でおこなわれた

地元消防、警察、市役所、救助犬チームなど多数の機関が訓練に参加

当院救護チームは残念ながら都合がつかず不参加であった

私自身も反省会のみの参加であった




2月中旬からは比較的暖かい日が続いていたが、当日は冬型の天気となった

山中の遭難者を捜索中激しい吹雪となり、まさにホワイトアウト


吹雪の中の捜索隊

長時間雪の中に埋まっていた傷病者役は、捜索隊のはげましの声が聞こえて元気がでたと言う



傷病者をそりに乗せる

傷病者を発見

悪天候のためヘリは飛ばず

そりに乗せて下山




また雪崩の生き埋めの捜索訓練もおこなった

捜索隊が一列に並び、棒を刺して雪下の傷病者を探す




雪下の遭難者を探す





人に当たる感触を確認

少しのスペースがあれば生存の可能性もあり、一刻も早い救助が必要とされる

今回の訓練をとおして雪山での救助レベルの向上と、顔の見える関係が構築できてよかった



2011年4月29日金曜日

誇り(pride)

その非常に困難な第一関門を抜ければ、先が見えてくると思っていた

こんな泥沼が延々と続くとは予想しなかった

地獄の福島第1原発


3月19日東京消防庁での会見をニュースで見た

福島第1原発3号機への放水任務を終えて東京に戻った緊急消防援助隊の会見だ

もしかしたら死ぬかもしれない

自分はともかく、若い隊員やその家族、日本の国のため失敗は許されない

そんな決死の覚悟があったに違いない


NHKニュースより



右端は東京消防庁第8方面ハイパーレスキュー隊の高山幸夫総括隊長

昨年の秋に高山総括隊長の講演を聞いた


高山氏はレスキュー畑をずっと歩んできた

数々の恐ろしい現場を経験、部下を育ててきた

現場にこだわり続けた

この年までオレンジを着れるのは幸せだ

さらに息子がレスキュー隊員になった

親子2代でのオレンジのツーショット

東京消防庁広しと言えどもこんな親子は俺たちしかいない



ひとを助ける仕事に対する誇り

高山氏の誇りを感じて自分もこうありたいと思った


もっと危険で、過酷な仕事をしている東電関連職員にもマスコミはスポットを当ててよい

2011年4月25日月曜日

滑落

それは4月の晴れわたった休日の午前

『これから雪崩に巻き込まれた2名が湯沢より救急搬送されてきます!』

前夜にも大きな地震が起きていた

雪が崩れやすくなっていたのかもしれない



湯沢から搬送されてくる場合は近隣の病院を断られ、

峠を越えてやってくるのがいつものパターンだ

事故発生から時間がかなり経っていることが予想された



1名は血圧50~60のショック状態との連絡が入る

救急車のサイレンが近づいてきた

外に救急車を迎えに出ると、そこにはテレビカメラマンが既に待っていた


NHKニュースより



救急車の後ろを開けると、血だらけの負傷者が横たわっていたが2本の静脈ルートがとってあった

1500mlの輸液がされていた
 


県警ヘリが救助した後、直近の医療センターで負傷者のトリアージと輸液がなされていたようだ

医療センターに感謝!



既にショックは脱していた 

レスポンダーだ



直ぐに手術になり、命の危険は去った


尋ねてみると 上方の雪庇の柔らかい雪が崩れてきてそのまま200m下に滑落したという

夜のNHKニュースで放送された山の映像をみて驚いた




NHKニュースより



よく生きていたものだ!

2011年4月17日日曜日

想定外

市内で火事があった

消防車のサイレンが鳴りひびいていた



病院の窓から外を見てみると

黒煙がもうもうと空へのぼって、大きな火柱が立っていた


立ち上る黒煙


ここからはかなり距離がある

だがふと東北大震災のことが頭に浮かぶ



想定外の巨大津波

過去にはここまでしか津波は来ていない

という想定外


もしもこの火事が病院のすぐ近くだったら
もしも爆発が起こったら
もしも有害な煙が院内に入ってきたら
もしも全員の避難が無理そうだったら
もしも・・・・



ネガティブに考えポジティブに行動する

災害には必要なことである

もう一度病院の災害マニュアルを見直そうと思う

2011年4月13日水曜日

AED

ある日の午後、入院中のAさんが急変した
CPA!

胸骨圧迫開始

AEDが来てパッドをはる

『解析中です』


AED

しばしの静寂


『ショックが必要です』
『充電中です』
『患者から離れてください』

ショック!

Aさんのからだがビクッとはねた  


再度胸骨圧迫開始

20秒後 Aさんの明らかな体動がみられた
頸動脈 拍動は良好

除細動成功!     
クオリティーの高いCPRと迅速なAEDの使用がものをいう

解析波形

解析波形での最終波形はVTであった (CPAなのでもちろん脈なしVT)

AEDは自動的に同期除細動をしていた

心電図波形のT波の部分に放電するとVFに移行してしまうことがある
これを避けるためAEDがR波の直後に自動で放電しているのである




除細動成功
 
放電の後、正常なQRS波形が出現
この時点ではまだPEAであろう

その後自己心拍が再開し体動がみられた

BLSインストラクター希望のナースのお手柄であった







2011年3月21日月曜日

大搬送作戦(2)

福島県南相馬市立総合病院からの新潟県への入院患者搬送は3日目を迎えた

ヘリが前日天候不順で引き返していたが、早朝からヘリ6機による搬送が順調に行われた

救急車24台での搬送も順調で、続々消防学校へ患者が運び込まれた


搬入車と搬出車でいっぱいになる


名前の確認、健康チェックの後、新潟県内の病院へ搬出されていった


消防学校本部の様子


3日目は非常にスムーズに経過した

魚沼方面へは安定している患者をバスで搬送した


バス後部に3名を収容

この3日間の作戦で合計92名が新潟県内の病院へ収容された

当院でも1名収容し、計4名の看護師(DMAT以外)が作戦に参加してくれた

貴重な経験であった

2011年3月20日日曜日

大搬送作戦(1)

3月19日福島県南相馬市立総合病院から新潟への大規模な入院患者搬送が行われた

地震後南相馬市立総合病院は懸命に医療を続けてきた

しかし原発から30km以内にあり遂にその機能を停止せざるを得なくなった


その作戦は実は前日に始まったのだが、初日は5人のみであった

2日目は100名以上の新潟への大搬送作戦が計画された

新潟DMATをはじめ医師、看護師、救急隊が多数 新潟県消防学校へ集結した


参集したDMAT


参集した救急車

学校の体育館では搬送された患者の健康チェックをし、県内各地の病院へふり分ける準備が進められた



午後4時半に一番目のバスが到着した



福島から到着したバス


高齢の患者が多く、長旅とクルマ酔いもあって顔色が悪い方が多かった

途中で放射線のチェックを受けるためクルマの乗り換えをしてきたという

自分で動けない方がほとんどで乗り換えも大変であったろう


同乗してきた看護師さんは休む間もなく働き続け、もうダウン寸前というところだった

お疲れ様です


体育館の中ではスムーズに作業が進められ、搬送先も決められた


県内の病院へ向けて分散搬送される



県内移動がこれからあるのでかわいそうではあったが、一部の施設に集中することは避けねばならない

福島から到着した救急車


結局、計画の半数以下の搬送であった

福島では十分な車両やマンパワーがないのだろう

残りの患者の搬送は翌日に延期された