大きな地震がどこかで起きているのは間違いなかった
TVでは信じられない光景が映し出されていた 当院DMATは出動準備をすすめた
私はいったん家に戻り、着替えや寝袋などを準備した 妻と娘が手伝ってくれた
DMATは医師の私と、看護師1名、調整員1名の計3名でこじんまりとした布陣だ
移動手段は消防の緊急車両で、消防職員の2名が運転手役として出動してくれることになった
移動に使用した車両 |
たくさんの人に見送られ、気分は特攻隊員の出撃か、宇宙戦艦ヤマトの出発のようであった
途中のコンビニで食糧(特にパン)と水をたくさん購入した
DMATの緑色のユニフォームは目立ち、コンビニのひとに「地震ですか、がんばってきてください」と励まされた
越後川口インターから高速道路に入った
磐越道は途中から通行止めになったが、緊急車両のためそのまま通行することができた
午後9時 磐梯山パーキングエリアで休憩をとった
気温はマイナス4℃で粉雪が舞っていた スタッドレスタイヤでなければ当然走行は困難
ここでは被災地へ向かう緊急車両が給油と休憩のため多数集結していた
我々も今後の活動のことを考えここで給油することとしたが、既にクルマの長蛇の列になっていた
給油のおじさんが「あぶらがもうなくなるよ」と疲れ果てた声で嘆いていた
磐梯山パーキングエリア |
警察や消防、ドクターカーなどの他に電力関係の会社のクルマが多かったのには驚いた
高速道路は比較的被害は少なく、福島西インターを降りた
国道4号線は崖崩れのため一部不通で、旧国道4号線にまわったがひどく渋滞していた
灯りの全くない地域があり、信号機だけが停電しているところもありで様々であった
午前0時に福島県立医大に到着した
既にたくさんのDMATが集結していた
DMAT本部 福島県立医大 |
赤タグの重傷者を治療可能な病院へ搬送するというのが最初のミッションであり、先発隊は既に出発していた
我々の車両は赤色灯のついた緊急車両ではあったが、患者搬送用のベッドがないため病院支援をすることになった
そこで津波の被害のひどかった災害拠点病院の南相馬市立総合病院へ向かった
海岸近くの国道ははズタズタということであったが、山越えのルートはスムーズだった
南相馬市立総合病院内の様子 院長先生とスタッフのみなさん |
病院へ着くと3月12日午前2時
2名の赤タグの傷病者を福島県立医大に運ぶため慌ただしく申し送りなどがされた
当日の日中は津波に巻き込まれたたくさんの方が運び込まれたとのこと
”ほとんどの方が泥だらけで大変であった
7名の方が亡くなり、死体安置所へ運んだ
泥水を吸い込んで呼吸不全となり人工呼吸器をつけている患者もたくさんいる
緊張性気胸や多発骨折もたくさんいた
もっともそっちの海のほうはまだプカプカ浮いているんじゃないか”
院内はフロアに多数のマットレスが敷いてあり
院長先生はじめたくさんのスタッフが働いておられた
深夜であったため外来患者はひとまず落ち着いていた
南相馬市立総合病院 |
夜明けとともに救助活動が再開され、また傷病者が運ばれてくるであろうとのことであった
看護師さんに家は大丈夫でしたかとたずねると、
「私の家は流されたみたいです おじいさんも行方不明です 帰るところもありません」
ロビーでニュースを見ていると”新潟県中越地方で大きな地震が発生 十日町市で震度6弱”
私が驚いているとそぼにいた患者さんに「先生のところじゃないの 大丈夫?」
逆に心配されてしまった
病院はまだ新しく大きな損傷はなかったが、水漏れがひどかったとのこと
その時点ではまだ水は普通に出ているようであった
夜明け前に本部の指示でとりあえず福島県立医大に戻ることになった
一睡もしないで夜明けを迎えた
つづく